朝ドラ「風、薫る」新宿中村屋を築いた波乱の実業家!丸山忠蔵(若林時英)の実在モデル・相馬愛蔵の生涯 (3/7ページ)

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生後間も無く父・安兵衛が、明治9(1876)年には母・ちうが世を去ります。愛蔵は、幼くして両親を失ってしまいました。

そのため、幼少の愛蔵は兄夫婦によって養育されます。

明治11(1878)年、愛蔵は穂高学校に入学。明治17(1884)年には長野県中学校松本支校(現在の松本深志高校)に進みました。ここで、のちに思想家・社会運動家となる木下尚江と知り合っています。

明治20(1887)年、愛蔵は上京して東京専門学校早稲田大学)に入学。在学中にはキリスト教に触れてています。愛蔵は牛込教会に通い、押川方義内村鑑三らと出会い、彼らからも影響を受けていました。

明治維新後の日本では、新しい教育制度や思想が広がっていました。愛蔵もまた、地方の名家の子弟でありながら、東京で近代的な学問と信仰に触れた青年だったのです。

明治23(1890)年、 愛蔵は東京専門学校を卒業。卒業後の進路として考えたのが、北海道で農園開拓でした。

しかし、兄夫婦の反対もあり、計画は断念。その後、故郷の長野県穂高で養蚕の研究に取り組むことになりました。

当時の日本において、生糸は重要な輸出品です。信州は養蚕の盛んな地域でもあり、愛蔵の研究は地域の産業と深く結びついていました。

明治27(1894)年、愛蔵は研究成果をまとめた『蚕種製造論』を出版。さらに明治33(1900)年に出版した『秋蚕飼育法』は版を重ねたとされ、養蚕が本業になりつつありました。

一方で、愛蔵は禁酒会活動やキリスト教伝道にも関わります。明治24(1891)年には東穂高禁酒会を立ち上げ、社会浄化や節制勤勉を広めようとしたとされています。

この時期の愛蔵は、単なる研究者ではありませんでした。産業、信仰、社会改良を結びつけながら、地方から新しい時代を見つめていたようです。

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