『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜京都を固めた家康のトライアングル防衛線【前編】 (3/7ページ)

Japaaan

だから、将軍が京都に滞在中に非常事態が発生し、一時的に難を逃れるために籠る城としてはいいかもしれません。

しかし、二条城は大坂城などと比べると、余りにも小規模で、しかも平城なので、何万という大軍勢を相手にした際の防御力に優れているとはいえず、どちらかといえば戦闘用の城郭というよりは、徳川家の政庁として役目を担っていたのです。

金戒光明寺山門(Wikipedia)

そこで家康は二条城だけでなく、京都東側に位置する金戒光明寺と知恩院という大寺院にも着目しました。これらの寺は高台にあり、広大な寺域を備えています。家康はその地形と構造を軍事的に活用できるよう整備し、事実上、城郭に準ずる拠点として機能させました。

つまり、二条城、金戒光明寺、知恩院で敵の京都侵入を防ぐトライアングル防御陣を構築したのです。

そして、この防御態勢こそが、家康が恐れていた「あること」に対する手段でした。

家康が最も恐れていた「あること」とは

江戸幕府は、将軍と大名(藩)という封建的主従関係のもと幕藩体制を構築しました。

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