朝ドラ「風、薫る」りんの運命の相手になる?横沢公輔(井上祐貴)のモデルとされる木下尚江の生涯 (7/8ページ)

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ここで尚江は、廃娼問題、政官界の汚職、普通選挙、労働者問題などを取り上げます。
なかでも重要だったのが、足尾銅山鉱毒事件です。
足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の農地や生活を破壊していました。尚江は田中正造らと関わりながら、被害民の側に立って記事を書きました。

明治37(1904)年、日露戦争が勃発。日本国内では開戦を支持する世論が高まり、新聞も戦勝を求める論調に傾いていきます。

そのなかで尚江は、戦争によって命を奪われるのは、権力者ではなく一般の兵士や民衆であると訴えました。
尚江は毎日新聞において小説『火の柱』を連載。同作は、政治、軍国主義、宗教、貧困などの問題を小説の形で描いた作品です。尚江は論説だけでなく、物語によっても戦争の矛盾を伝えようとしました。

続いて『良人の自白』を発表し、社会制度と人間の内面の葛藤を描いています。

明治38(1905)年には、石川三四郎らと雑誌『新紀元』を発行。しかし政府の監視は強まり、平民社も解散へ追い込まれます。

明治43(1910)年、尚江は岡田虎二郎の岡田式静坐法に入門。岡田式静坐法は、姿勢と呼吸を整えて静かに坐り、心身の安定を求める修養法です。
尚江は静坐によって自分の心を見つめ直し、宗教や人間の生き方について考えるようになりました。
やがて仏教思想にも関心を深め、『日蓮論』『法然と親鸞』などを著述。政治運動の表舞台からは退きましたが、著述と思索を通じた活動は続いていました。

分泌活動の一方で、足尾銅山鉱毒事件に取り組んだ田中正造との関係は続きました。
大正2(1913)年、田中正造が病床に伏すと、尚江はその最期に立ち会っています。
のちに尚江が著した『臨終の田中正造』には、権力や財産を求めず、被害民のために生涯を捧げた田中への敬意がにじんでいます。

尚江の著作のなかには発売禁止となったものもあります。それでも尚江は、弱い立場に置かれた人々を見つめ、民主主義と非暴力の大切さを書き残しました。

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