朝ドラ『風、薫る』でも描かれた「明治ナース誕生」史実では何があった?看病を“専門職”へ変えた女性たち (4/7ページ)
生徒でもあった峯尾えいが、英語の看護書を翻訳しながら授業を行うなど、手探りの状態で教育が始まりました。
その後、スコットランド出身の看護婦アグネス・ヴェッチが指導に加わります。ヴェッチは帝国大学医科大学第一医院で働きながら、養成所の授業や実習を担当しました。
生徒たちは、包帯の巻き方や患者の身体を清潔に保つ方法だけでなく、換気、食事、病室の環境、患者の観察などを学びました。
明治23(1890)年7月19日、大関和や鈴木雅らは看護婦養成所の課程を修了します。
修了後、大関と鈴木は、実習先だった帝国大学医科大学第一医院に採用されました。大関は外科、鈴木は内科の看護婦取締(現在の婦長に近い役割)を任されます。
専門教育を受けた看護婦がまだ少なかったため、新人でありながら指導的な立場を担うことになったのです。
同じころ、日本赤十字社でも看護婦養成が始まっていました。
明治19(1886)年、日本赤十字社は救護員を養成するために博愛社病院を設立。明治22(1889)年には「日本赤十字社看護婦養成規則」を制定し、翌明治23(1890)年から10人の看護婦生徒の養成を開始しました。
明治24(1891)年に濃尾地震が起こると、第一期生10人全員が救護班に加わりました。これが、日本赤十字社で養成された看護婦による最初の災害救護活動とされています。
当初の養成目的は戦時救護でした。しかし、濃尾地震での活動をきっかけとして、災害時の救護も看護婦の重要な役割に加えられていきました。