朝ドラ『風、薫る』でも描かれた「明治ナース誕生」史実では何があった?看病を“専門職”へ変えた女性たち (6/7ページ)
慈善看護婦会は後に「東京看護婦会」と改称されました。明治29(1896)年には「東京看護婦養成所」も設けられ、鈴木は看護婦を派遣するだけでなく、後進の教育にも取り組みました。
一方、大関和は明治23(1890)年に帝国大学医科大学第一医院を退職します。
病院で働いていた大関は、十分な休息を与えられずに働く看病婦たちの姿を見て、待遇改善を求める建議書を提出していました。
看護婦の献身だけに頼るのではなく、働く環境そのものを改善する必要があると考えていたのです。
翌明治24(1891)年、大関は新潟県高田にある黒川勝治の知命堂病院で看護長となりました。
当時は、コレラ、赤痢、腸チフスなどの感染症がたびたび流行していました。大関は病室の換気、患者の身体や衣類の清潔、飲料水、食事、便所やごみ捨て場の管理などを重視します。
患者の世話だけでなく、病気が広がりにくい環境をつくることも看護婦の仕事だと考えたのです。
明治27(1894)年に日清戦争が始まると、日本赤十字社の看護婦による救護活動が新聞などで報じられました。看護婦を志す女性が増える一方、十分な教育を行わないまま看護婦を派遣する組織も現れます。
大関と鈴木は、看護婦の教育水準や業務を定める規則が必要だと考えました。内務省衛生局長の後藤新平に働きかけたとされますが、すぐに全国的な制度ができたわけではありません。
大関は、現場で働くだけでなく、看護の知識を広く伝える活動にも力を入れました。
明治40(1907)年、療養中に『実地看護法』を執筆。翌明治41(1908)年に刊行された同書には、患者への接し方や看護婦の心得、病室の衛生などがまとめられました。