【豊臣兄弟!】秀長は逃げない!史実が明かす、賤ヶ岳の勝敗を分けた「守りの名将」の真骨頂 (6/10ページ)
🄫NHK
撤退を主張する重晴に秀長は、「まだ先陣が来ただけじゃ。いましばらくここで食い止めるのじゃ」と、これをはねつけます。そして佐久間勢に対し、砦の柵内から鉄砲と弓の交互射撃を展開し、攻め手を悩ませました。
この秀長の戦い方を彷彿とさせるのが、留守中に秀吉が秀長へ出した『羽柴秀吉書状』(長浜城歴史博物館蔵)です。
そこには、「惣構の堀から外へ鉄砲をうつことは言うまでもなく、草刈りにいたるまで一人も兵を外に出さないこと」と事細かに指示が記されていました。
秀長が得意とした「守りの戦い」田上山砦で行った秀長の陣地防衛戦は、以前から実践していた戦い方でもありました。
それは、賤ヶ岳の戦いから遡ること5年、1578年(天正6年)10月の三木合戦における平井山の戦いでのことです。
播磨攻めにのぞむ秀長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
秀吉は三木城に立て籠もる別所長治軍の兵糧を絶つため、城の周囲に付城を築きました。