【豊臣兄弟!】女性や子供まで大量処刑…なぜ“人たらし”の秀吉(池松壮亮)は残虐な暴君へ変貌したのか (5/9ページ)
さらに首謀者と疑われ処刑された尾藤道休(びとうどうきゅう)が暮らしていた、本願寺寺内町の町民63人をくじ引きで選んだうえで磔にして処刑。それでも怒りの収まらない秀吉は、大坂にも詮索の手をのばし最終的には133人を処刑しました。
この事態に『多聞院日記』の筆者の一人興福寺多聞院英俊は、「運次第也、さてさて不憫事也、一向無罪仁共也、アサマシアサマシ」と記しています。
この事件で重要なのは、事実上の天下人となった秀吉にとって、自らの権威を守るためにはどんな苛烈な処置も厭わなかったということです。
かつて「人たらし」と称された秀吉は、いつしか人々を恐怖によって従わせる存在になっていたのです。
関白秀次切腹事件とその一族の粛清聚楽第落書き事件の6年後、1595年(文禄4年)6月に、人々を震撼させる事件が起きます。
秀吉から関白の座を譲られ聚楽第にいた豊臣秀次(山田涼介)が、突然謀反の罪より高野山へ追放のうえ自害して果てたのです。