【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】 (4/7ページ)
どういう訳かくわしくわかりませんが、それからというもの、蜂須賀家と黒田家は役120年間にわたって断交したということです。
豊臣政権内の分裂はいよいよ深刻化した慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝を討つために兵を起こすと、家政は至鎮を従軍させて自身は大坂城に残りました。
これは病気が理由だったとも、家康の不在を守るためだったと言われています。しかし中国地方から毛利輝元(濱省吾)が大坂城へ入ったため、親徳川派の家政は身柄を拘束されてしまいました。家政は豊臣秀頼(秀吉遺児)に阿波一国を返上して出家し、高野山へ上ります。
やがて家康が関ヶ原の合戦(対 石田三成ら)で勝利すると家政は呼び戻され、本領を安堵つまり阿波一国を返してもらったのでした。
しかし家政は現役に復帰する意思はなく、至鎮に家督を譲って隠居したということです。
豊臣家の終焉を見届ける
かくして第一線こそ退いた家政でしたが、まだ若い至鎮を補佐して阿波国の経営に尽力しました。
水争いの裁定や検地の実施など、先ほど紹介したとおり、阿波国内はまだまだ政情が安定していなかったのです。
そうこうして歳月は流れ、慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、家政は豊臣秀頼から加勢を求められました。
かつて色々あったけれど、やはり故太閤様(秀吉)には御恩もあるし、このまま豊臣家が家康に滅ぼされてしまうのは忍びないものです。