【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】 (5/7ページ)
家政はどうせ老い先短いから、と秀頼に加勢しようと思いましたが、至鎮の反対もあって断念しました。自分一人の私情によって、蜂須賀家を潰してしまう訳にはいきません。
そこで家政は、自身が人質となって江戸に向かい、徳川家に対する忠義を証明したのでした。
至鎮も大坂の陣で武功を立てたため、豊臣家の滅亡後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、阿波国とあわせて25万7千石となります。
かくして戦乱の世が終焉を迎えてからも、家政・至鎮は領国経営に心を砕き、元和4年(1618年)には御壁書二十三箇条を制定しました。これは今まで個別に発していたお触れや領国経営の原則をまとめたもので、一説には至鎮が定めたものとも言われます。
これでそろそろ引退かと思ってた矢先、元和6年(1620年)に至鎮が35歳という若さで急死してしまいました。
家督を継いだ嫡男の蜂須賀忠英(ただてる。家政から見て嫡孫)はまだ幼いため、家政はを後見し、忠英が成人する寛永4年(1627年)または病床に臥せる寛永6年(1629年)まで政務を取り仕切ります。
引退に際して、先年にまとめた御壁書二十三箇条を補完する裏書七箇条を制定し、藩政の指針を確立しました。
はるか遠い昔となった戦国乱世を知る数少ない長老として、家政は第3代将軍・徳川家光の御伽衆として召し出されることもあったと言います。
そして寛永15年(1638年)12月30日、家政は81歳で世を去ったということです。