【ブラッサム】珠の同級生・角田忍が憧れた「平塚らいちょう」とは?『青鞜』が女学生の心を揺さぶった理由 (6/9ページ)
創刊号は、予想を上回る反響があり、一年後の青鞜社主催の講演会には、満員御礼の千人が集まったといわれます。「青鞜」が大胆な自我の主張と女性だけで独立の言論の場を持ったことは、社会に大きな影響を与えました。(白つつじの会〜生田長江顕彰会〜)
多くの女性に支持されながらも、“良妻賢母が女性の生きる道”としていた当時の社会は、「新しい女性」の主張を簡単には受け入れませんでした。
『青鞜』は何度か発禁処分を受けたり、らいちょう自身も世間から厳しい批判を浴びたりしたそうです。
それでも彼女は活動を続け、大正3年(1914)28歳頃からは、画家の奥村博史と事実婚の生活を始めます。
婚姻届を出さない選択は、当時の家父長制や結婚制度への静かな抵抗でもあったといわれています。(27年後、55歳の頃に婚姻届を提出)
平塚と夫の奥村博史。1914年夏、伊豆の土肥温泉にて。wiki public domain
85歳で亡くなるまで女性の権利と平和を訴える活動さらに、らいちょうの大きな功績として挙げられるのが、1919年から1920年にかけて、日本初の婦人団体「新婦人協会」の結成をしたことでしょう。