【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望 (2/7ページ)
この淀城は茶々の産所として築かれ、言わば彼女に与えられた城であるため、彼女は淀君(よどぎみ)・淀殿(よどどの)などと呼ばれるようになります。
出産のために城ひとつ築いてあげてしまうとは、秀吉がいかに茶々を溺愛し、嫡男の出産に期待を込めていたかがわかるでしょう。
当時の秀吉は53歳。すでに高齢どころか孫や曾孫がいてもおかしくない年齢でしたから、生まれた我が子がそれはもう可愛くて仕方なかったと思われます。
しかし油断してはいけません。当時は乳幼児の死亡率が非常に高く、俗に「7歳までは神様の子(いつ召し返されても=死んでもおかしくない)」と言われるほどでした。
ちなみに以前紹介した、秀吉が前田利家から迎えた養女・菊姫(きくひめ)は、わずか7歳でこの世を去っています。
【豊臣兄弟!】わずか7年の生涯…秀吉に溺愛された豪姫に対し冷遇されたもう1人の養女・菊姫の不憫さ少しでも強くたくましく成長してもらわなければ、せっかくの喜びが水の泡となってしまいます。
そこで秀吉は、生まれた我が子に「棄(すて。御棄・棄丸・捨など)」と名づけました。
これは「捨て子はたくましく育つ」と考えられた当時の風習にならったもので、あえて一度捨てた子を拾ってたくましく育ってほしい親心が込められています。
かくして一度捨てられ、拾われた棄は改めて鶴松と改名しました。
また可愛い我が子の武運長久を願って、八幡太郎(はちまんたろう)とも呼んだそうです。
これはかつて八幡太郎(八幡大菩薩の化身)と異名をとった源義家(みなもとの よしいえ。源頼朝の高祖父)にあやかったもので、秀吉はすでに我が子が大活躍する未来を思い描いていたのでしょう。
