【豊臣兄弟!】3歳で散った儚い命…茶々(井上和)と秀吉の“初めての子” 鶴松、溺愛の果てに訪れた絶望 (5/7ページ)

Japaaan

必死の祈祷も甲斐なく世を去る

隣華院蔵 木造豊臣棄丸坐像(画像:Wikipedia)

翌天正19年(1591年)閏1月3日、鶴松は病床に臥せてしまいました。秀吉は大急ぎで全国の神社仏閣に命じて病気平癒の祈祷に当たらせます。先月(天正19・1591年1月22日)に豊臣秀長(仲野太賀)が亡くなっていたことから、より一層心細く、不安だったことでしょう。

必死の祈祷が功を奏したからか、しばらくして鶴松の病状は回復しますが、8月2日になって再び鶴松は重篤に陥りました。今度こそダメかもしれない。秀吉はなりふり構わず全国の神社仏閣に病気平癒の祈祷を命じただけでなく、自身も東福寺(京都市東山区)に籠もって祈祷したと言います。

鶴松の下には天下の名医を片っ端から掻き集めたそうですが、祈祷も治療もその甲斐なく、鶴松は世を去ってしまいました。時に天正19年(1591年)8月5日、享年3歳でした。

秀吉の落胆ぶりはすさまじく、8月6日に自らの髻(もとどり)を切って鶴松の遺体に手向けたそうです。この時に徳川家康(松下洸平)や毛利輝元(濱省吾)ら諸大名や近臣らもこれに従って髪を切り、集まった髪の束が塚のように盛り上がりました。

※亡くなった鶴松を想い、秀吉が詠んだ和歌があります。以下の記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。

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