「卑弥呼」は偉大な女王だった!「三国志」の動乱を読み大国・魏から“破格の待遇”を勝ち取った知略 (3/8ページ)
三国のうち最初に亡くなったのは、魏の曹操で220年に死去します。しかし、孫権と劉備はなお健在でした。
実はですね、この220年という年は日本においては倭国大乱を経て邪馬台国が成立し、倭国連合の中心として存在していた時期とほぼ重なるのです。
そして、倭国を統べていた邪馬台国と密接な関係を築こうと積極的に動いたのが魏でした。
魏というと、三国のなかで最大の国力を誇った国とされますが、実はそんなに安穏としている状況ではなかったのです。
たとえば、208年に起きた赤壁の戦い。曹操が圧倒的な大軍を率いながらも、劉備と孫権の連合軍に大敗を喫した戦いです。
この戦いの後、曹操の勢力は孫権や劉備と対峙しながら、遼東や朝鮮半島方面の情勢にも対応しなければならない立場に変わっていきました。
曹操は臨終に際し、「天下は未だ収まっていないから古例に従う必要はない。私の埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と言い残しました。
それほど、自分の没後の魏に危機感を抱いていたのでしょう。曹操の死後、その子・曹丕(そうひ)が魏王の位を継ぎ、やがて後漢から禅譲を受けて皇帝となります。
しかし曹丕は、呉・蜀との戦いで決定的な優位を築けぬまま、在位わずか6年で死去してしまいました。