「卑弥呼」は偉大な女王だった!「三国志」の動乱を読み大国・魏から“破格の待遇”を勝ち取った知略 (4/8ページ)

Japaaan

そして、その後を託されたのが、子の曹叡(そうえい)と、曹操の代から重用されてきた司馬懿(しばい)でした。

実はこの司馬懿こそ、卑弥呼へ「親魏倭王」の称号を授ける魏の外交判断に、深く関わった人物である可能性が高いと考えられるのです。

魏・呉・公孫氏が絡んだ、遼東・朝鮮半島の政治情勢

237年、遼東半島に独立政権を築いていた公孫氏の4代目・公孫淵が魏に背きます。これを受けて、翌238年、司馬懿は曹叡の命を受けて公孫淵を攻撃しました。

『三国志』の「魏志東夷伝」には、「倭や韓が帯方郡に従っていた」ことが記されていますが、この帯方郡とは、公孫氏政権が設けたものです。

また、遼東半島は、朝鮮半島と中国大陸の中間にある軍事・外交の要衝であり、古代から近代に至るまで、極めて重要な地域でした。

帯方郡と朝鮮半島(Wikipedia)

それゆえに魏と呉が、遼東半島を押さえる公孫氏政権を味方に引き入れようとするのは、至極当然なことであったのです。

232年、公孫淵は魏ではなく、呉の孫権に従う姿勢を見せます。孫権は強力な水軍を背景に、海上から魏の背後を脅かす戦略をたて、そのために公孫淵を味方に引き入れようと動いたのです。

当然のことながら、この呉の動向に魏は警戒を強めます。そして、公孫淵に圧力をかけ、呉から使者が来たら殺すよう命じ、公孫淵はこれに従い呉の使者を殺害しました。

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