【ブラッサム】言論弾圧に屈せず…山中勇三(井浦新)のモデル候補・嶋中雄作『婦人公論』創刊者の生涯 (3/5ページ)
雄作は畝傍中学校を経て、大正元(1912)年10月に早稲田大学哲学科を卒業。同月に中央公論社へ入社します。
この入社にあたっては、早稲田大学の教授であり、雄作の恩師・島村抱月と金子筑水の推薦があったようです。
いわば雄作はそれだけ将来を期待され、嘱望されていたほど優秀だったとみることができます。
このときから、雄作は編集主幹・滝田樗陰の下で働き始めました。
※滝田樗陰に関してはこちらの記事で詳しく紹介しています。
【ブラッサム】保との別れ、そして再々婚…黒崎(遠藤憲一)モデル、名編集長・滝田樗陰が引き寄せる数奇な運命雄作が特に関心を持ったのは、女性の権利や生活問題でした。そこで『中央公論』の婦人問題特集を企画して反響を得ます。
雄作は女性向け雑誌の必要性を確信。中央公論の経営側へも働きかけ、やがて実現することとなります。
大正5(1916)年1月、『婦人公論』が創刊。雄作は主幹を務める立場となりました。
主幹は現在でいえば編集長に近い立場です。寄稿者、特集、論調を決める編集の責任者でした。
雄作は女性解放を掲げる論説に、文学と生活記事を組み合わせて好評を獲得。野上弥生子ら女性作家の発表の場を広げました。
ここで雄作は宇野千代とも接点を持っていた可能性があります。
大正11(1922)年5月、宇野千代の『墓を発く』が『中央公論』に掲載。このときの同誌の主幹は滝田でした。
