【三沢光晴をめぐる証言vol.6】秋山準インタビュー (1/5ページ)

日刊大衆

【三沢光晴をめぐる証言vol.6】秋山準インタビュー

2代目タイガーマスク、全日本プロレス社長、プロレス四天王としての活躍、そしてプロレスリング・ノア旗揚げ。「天才」という名を欲しいままにしつつ、2009年6月13日におきた「リング上での死」という形で、ファンに衝撃を与えたままこの世を去った三沢光晴。 先日発売された「俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)」では、彼と関係のあった10人のレスラーの証言を集め、プロレスラーとして、また男として、三沢がどんな人間だったのかに迫った。今回は、特別にその中から一部を抜粋して紹介したい。

「三沢さん、首が悪かったじゃないですか。それでも絶対に文句も弱音も吐かない人が……亡くなる数カ月前ですかね、僕は“キツイな”っていう言葉を聞いたんです」

──98年夏から秋山さんは三沢さんから離れて小橋(健太)さんとバーニングを結成しましたが、三沢離れを決意したのは?

秋山 三沢さんと組んでましたけど、練習も何もかも小橋さんが一番近いというのもありましたし、小橋さんからは「もう俺たちがやっていかなきゃいけない」っていう言葉もずっと聞いてました。その小橋さんが川田さんから三冠を獲って新時代宣言した時(98年6月12日、日本武道館)に「タイミングはここだろう」と思って行動を起こしましたけど、それに対して三沢さんからは規制がかかったりとかは何もなかったですね。

──その頃、三沢さんは現場の権限を掌握して全選手に「やりたいことはちゃんと意思表示して、自分の責任において行動するように」という意識改革を促しましたよね。そして00年夏には“自由と信念”を旗印にノアが誕生するわけですが。

秋山 自分のケツは自分で拭けということですよね。ノアに関しては行って当然というか、行かないと自分の闘うべき、組むべき人がいない状況でしたからね。行くしかなかったですね。全日本と分かれる時は“三沢さんが作る会社”っていう意識だったかもしれないですけど、いざ独立してからは、ノアって言っても誰も知らないわけだから「とにかく名前を覚えてもらわなきゃいけない」っていうところから、自分でいろいろやっていかなきゃいけないと思いました。ノアの合言葉が“自由と信念”だったじゃないですか。難しいんですよ、これが。

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