インターネットから始まる、新しい映画のつくり方 #1 書籍編 (2/7ページ)
作品の感じ方は人それぞれでも、その物語の内容を相手、つまり不特定多数の観客たちが理解できなければ、それは映画とは言えません。
なぜなら、映画はあなた個人のものではなく、人々のものだからです。映画は大衆娯楽として栄えたメディアであり、人々を笑わせ、感動させ、そしてより映画の中に巻き込むには、自分のつくりたい映画を正確に「デザイン」する能力が必要なのです。
僕の最初の作品は、高校一年生の頃、インターネットで知り合った友人たちとともにつくったものです。
脚本は、一度も会ったことのない岩手の友人にSkypeで話し合って決め、撮影と録音は名古屋に住む「機材オタク」な高校生たちに頼みました。
役者もネットで募集し、22分弱のその作品は夏休みの1日を使って撮影しました。インターネットを介して集まった僕らは、撮影初日が初対面。数ヶ月後、その作品はYouTubeに公開され、30,000回を超える再生回数と多くのコメントをもらいました(残念ながら元の動画はアカウントのハッキングによって削除されてしまいました)。
短編映画「声を大にして叫べ」
素人の高校生がつくった青臭い短編映画が、違う場所、違う時間に不特定多数の人間によって鑑賞され、たくさんの賞賛や批判のコメントが送られてくる。僕と岩手の少年が抱えていた日常の鬱憤が、ある1日の出来事(脚本)になり、演技され、撮影され、録音され、編集され、公開され、鑑賞され、僕らだけのものではなくなった。単なる動画とは違う、人に伝えるプロセスを踏んだ映像作品は、どんなものであろうと映画と呼べるのかもしれません。
しかし、知識も技術も表面的にしか身につけていない、いまにも不安で砕けてしまいそうな僕たちは徐々に「映画をつくること」の難しさに直面しました。自分たちの信じるままにつくる、直感的な映画づくりはとてもおもしろい。でも、その直感には「根拠」がなかった。