【歴史】徳川家康には20人以上の妻と妾がいたことが判明! けしからん状態だった (1/4ページ)

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【歴史】徳川家康には20人以上の妻と妾がいたことが判明! けしからん状態だった

政略結婚は家や国にとっては万々歳でも、当人達にとって不本意な状態であることが多いですよね。中には「一緒に暮らしてみたら仲良くなれました」ということもありますが、それはごく一部。天正十四年(1586年)の4月28日、徳川家康に嫁がされた秀吉の妹・朝日姫も相当迷惑に思っていたうちの一人でしょう。既に結婚していたのに、無理やり離婚させられて家康の継室になったのですから。

何でそんなことをしたのかというと、話は単純です。信長の死後、秀吉は織田家内の重臣を討ったり懐柔したりして天下人への道を歩みました。その中でどうにもうまくいかなかったのが、信長が死ぬまで同盟関係を保ち続けた家康だったのです。他家である上に家臣団の結束も固く、簡単に崩せる相手ではありません。そこで秀吉が最後の手段として用いたのが、妹を使った政略結婚だったというわけです。

・わずか2年で徳川のもとを離れカムバック
さて、家康の元へ輿入れした朝日姫ですが、彼女もジッとはしておりませんでした。婚姻からわずか2年後には、「母のお見舞いに行って来ます」といって京都の聚楽第に移り、それ以降、徳川へは戻らなかったのです。

もともとが家康を丸め込むための結婚ですから、秀吉も「もうアイツは裏切りそうにないな。なら追い返す理由もないな!」と思っていたのでしょう。その後は朝日姫自身も病気がちになったそうで、別居からこれまた2年後に亡くなっています。

というわけでさっそく書くべきことがなくなってしまうのですが、ついでですから狸・家康の奥事情をもう少し見ていきましょう。記録されている名前だけで20人以上いるので、今回は上のほうの息子を産んだ人や強烈なエピソードが残っている人だけですが。以下、本名もしくは通称が違う女性とダブってしまう方については出家後もしくは戒名で書かせていただきますね。

・築山殿
皆さんご存知、家康の最初の正室です。今川義元の姪っ子で、家康がかつて今川家に臣従していた頃に結婚しました。そんな関係だったからか、あるいは余程性格が合わなかったのか、当初から仲睦まじい夫婦とはいえなかったようです。

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