【東日本大震災】大川小学校の悲劇と地元に伝わる"ある伝承" (1/4ページ)

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【東日本大震災】大川小学校の悲劇と地元に伝わる"ある伝承"
【東日本大震災】大川小学校の悲劇と地元に伝わる"ある伝承"

 東日本大震災で最大の被災地・宮城県石巻市。その津波浸水域の住民のなかには以前から、津波が来る恐れがあるとして高台の避難場所を作ろうと動いていた人がいた。しかし、地区の住民の中に反対の声があり、整備を断念していた。住民の一人は「もし、高台の避難場所が整備されていれば......」と涙ぐむ。

「郷土を守りたい」という気持ちは今でも持っているといい、現在でも、津波対策について行政に働きかけをしている。

■震災以前から津波に襲われると思っていた?

 石巻市長面地区は新北上川河口付近に位置している。下流側には尾崎(おのさき)地区があるだけ。その先は追波湾につながる。上流側には釜谷地区がある。児童74人、教員10人が亡くなった大川小学校がある。

 私は大川小学校の遺族関連の取材をして、時間があるときは、大川小よりも下流の長面地区や尾崎地区の住民からも声を聞こうと、取材に向かうことがある。震災以後は、居住制限がかかっており、住民は仮設住宅や復興住宅、新居に住んでいる。そのため、会うことができるのは漁業従事者や遺体捜索をしている人、工事関係者、震災支援の関係者が多い場所だ。

 長面地区で15年3月、永沼英夫さん(74)と出会った。永沼さんは大川小の卒業生でもある。「そのころは交通の便が悪いから、横川分校、針岡分校、長面分校があり、4年生まで分校に通い、5年生になったら釜谷の校舎に通ったんです。中学校も近くにあったんですよ。中学1年のとき校舎が引越しをした」

 1941年(昭和16年)生まれの永沼さんは中学卒業後、石巻市内で仕事をしていた。17歳からは自宅で農業をし、19歳になってからは群馬県で働くことになった。35歳のころ、長面に戻った。

「震災以前から長面地区は津波に襲われると思っていた。長面はもともと海ですから。風で運ばれた砂もあるけど、沖から(津波に)運ばれたと思われる跡が残っていたから。普通なら砂浜にあるだろうけど、たまに砂が押されてくるんだろうね。子どものころから砂山の溜まりを見ていた。それをみんな取ってしまったんです。そのため、その跡よりも盛り土をして、住民が避難できる場所を作ろうとした」

 津波と思われる言い伝えもあるという。

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