高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (3/8ページ)

心に残る家族葬

若光の死後、親族や地域の人々は若光を偲び、「高麗大明神」として崇敬した。祭神は後に「大宮大明神」とも、若光が高齢で白ひげを生やしていたことから、「白髭大明神」とも言われた。毎年9月19日には近在の12村で獅子舞などの祭礼を行って来た。また、1878(明治11)年に記された『武蔵國高麗郡高麗郷古傳』には、土地の人々の伝承に、若光は朝鮮半島内の国乱を避け、親族重臣と共に来日し、日本に帰化した。若光が住居と定めた高麗郡高麗郷周辺には、若光と行動を共にした人々も群居した。後にそこから離れ、他の土地の開墾に従事する者もいた。若光は村人たちをいたわったので、次第に彼らの生活を安定させるに至った。若光の死後、高麗人はあちこちに分散し、村を開いた。その際、若光を祀った「白髭神社」を自ら移り住んだ場所に遷座し、その徳を称え続けた。そのような中小の白髭神社は近在に21社存在するという。

そして高麗神社の宝物のうち、高句麗からもたらされたものとして、高麗王太刀(1口)、駒角(高麗王が乗馬した際、馬に生じた角と言い伝えられたもの。駒角は当時、国家における吉凶の大事の前兆と信じられていた)(1口)、鏡型掛仏(1面)、掛仏(13体)、独鈷(1本)、唐獅子(香炉烟吐)(1個)がある。

■高麗王若光の言い伝え


若光を祀り、その末裔によって守られてきた高麗神社は59代宮司・澄雄が記した『高麗神社と高麗郷』(1931/1991)内に記載された、1886(明治19)年7月に内閣修史局に提出された「高麗氏系図」の冒頭文を挙げ、高麗神社に祀られた神々は高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰の三柱だが、もともとは若光が亡くなった際、近在の人々が集まり、遺骸を居宅の外に葬り、霊廟を現在の高麗神社社殿の後の山に建て、高麗明神と崇めた。そして郡中に凶事があると明神に祈ったと述べている。

そして若光一行にまつわる言い伝えとして、来日後に東海(現・太平洋側の三重県・岐阜県・静岡県・愛知県)を目指し、遠江(とおとみ)灘から伊豆の海を過ぎ、相模湾から大磯(おおいそ。

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