高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (4/8ページ)

心に残る家族葬

現・神奈川県中郡大磯町)に上陸した。そして邸宅を化粧(けわい)坂から花水(はなみず)橋に至る大磯村高麗(こま)の地に営んだ。そこで若光は朝廷より従五位下に叙せられ、次いで王の姓を賜った。それから14年後、彼ら一族は武蔵の高麗郡に赴いた。しかしその後も大磯の人々は若光の徳を称え、高麗山(こまやま)の中峯に高来(たかく)神社上の宮を、そして麓には下の宮を建ててその霊を祀ったということを紹介している。

■そもそも高麗王若光は何故日本に来たのか

若光などの渡来人が奈良の都周辺や当時唯一の海外要人を饗応する「迎賓館」であった筑紫館(ちくしのむろつみ。現・福岡県博多湾沿岸)を擁する今日の福岡県内ではなく、北武蔵(現・埼玉県熊谷市)に移住したのは、6世紀末頃の壬生吉志(みぶきし)が始まりとされている。そもそも何故、彼らが異国の、しかも彼らの目には「後進国」だった日本に移住しなければならなかったのか。

若光の出身国・高句麗は首都を平壌とし、朝鮮半島中北部から中国東北部に至る大国だった。紀元前75年頃の古代朝鮮において、鴨緑江中流域、渾江流域に位置する高句麗県内を拠点とし、大きな政治力を有した人々が発祥とされている。彼らは山城(やまじろ)を築いて根拠地とするばかりではなく、平地にも平城(ひらじろ)をつくり、山城と平城を軍事的・政治的に一体化するという独特なやり方で運営したことで、半島内の一大勢力となっていた。それゆえ、新羅(BC57〜935)や百済(346〜660)のみならず、中国・隋の煬帝(ようだい。在位604〜618)や唐の太宗(たいそう。在位626〜649)、高宗(こうそう。在位649〜683)を手こずらせるほどの国力を誇っていた。しかし高句麗は666年、国内の後継者争いに伴う内乱が起こる。それに乗じた唐の高宗と新羅の連合軍によって攻め込まれ、最終的に668年に滅亡した。7〜8世紀は高句麗のみならず、百済も滅亡し、半島を制圧した新羅にしても国情は必ずしも安定したものではなかったことから、多くの亡命貴族や技術者たちが日本に亡命した。しかも「後進国」であった日本を治める大和朝廷は、彼らを都に留め置き、最先端の技術や学問を学ぶ必要があったばかりではなく、未開の地である東国の開発を必要としていた。

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