高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (7/8ページ)

心に残る家族葬

それを裏づけるように、高麗神社内にある重要文化財で、江戸期に作られた藁葺きの高麗家住宅は、我々がよく知る「田舎の庄屋さんの家」そのもので、「高句麗」「朝鮮」の痕跡は全くない。

■日韓交流の象徴として脚光をあびるようになった高麗神社


しかし皮肉なことに、高麗神社そのものが日本国内で脚光を浴びたのは、1868(明治元)年に神仏分離が行われた明治時代以降、主に1910(明治43)年の日韓併合から1945(昭和20)年の終戦までの間だった。高麗神社は意図せぬところで結果的に「政治」に関わる格好で「植民地支配」された朝鮮と、「支配」した日本との「内鮮融和」「内鮮一体」(朝鮮人が日本の言語や風習に同化することを目指すもの)のシンボルとされた。そのため日本の皇族や若槻礼次郎、浜口雄幸、斎藤実などの大物政治家や折口信夫などの民俗学者や文学者、朝鮮総督府の要人たち、朝鮮からの日本視察団の人々、更には「東洋のマタ・ハリ」こと清朝王族、第10代粛親王の第14王女の川島芳子や李王朝の最後の皇太子・李垠、李方子殿下らが訪れるほどだった。

現在は一の鳥居の右側に、1993(平成5)年に、在日大韓民団の人々に奉納された「将軍標(しょうぐんひょう)」と呼ばれる、左に「天下大将軍」、右に「地下女将軍」という文字が彫られた一対のトーテムポールが立っていたり、例えばサムルノリ(4つの打楽器を打ち鳴らしながら、激しく体を動かすもの)などの韓国の民俗芸能が披露されたりするイベントが開催されたりする、「日韓交流」の「場所」となっている。

■最後に…

昨年2016(平成28)年は、高麗郡建郡からちょうど1300年経った年だった。その1300年間、異郷で生きた、そして死に、かつての高句麗から遠く隔たった多宝塔の下に眠る高麗王若光または、高麗神社に祀られた高麗大明神は高麗郡の1300年をどのように眺め、何を思ったのだろうか。輝かしき高句麗再興を、異国の「高麗」と名づけられた「場所」で夢見たのか。

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