高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯と埼玉県日高市にあるお墓 (5/8ページ)

心に残る家族葬

それは東国内の上野国(こうずけのくに、現・群馬県)には、反朝廷派の上毛野氏(かみつけのうじ)が力を振るい、いつ奈良の都に攻め上って来るかわからない状況でもあったからである。それゆえ朝廷側は亡命貴族が有する農耕・牧畜・紡績・鍛治などの最先端技術を導入することで東国を安定させ、上毛野氏に追随する地方豪族が出ないことを目指してもいたのだ。

■高麗王若光が高麗郡(埼玉県日高市や飯能市周辺)を選んだ理由とは?

また、高麗王若光らが武蔵の高麗郡の「ここ」に居を定めたのは、「たまたま」ではないだろう。高麗川南側の山地から市域南縁に横たわる高麗丘陵と高麗川がある。そして高麗川中域は北に外秩父山地外縁の急斜面が、南に高麗丘陵の斜面がすぐ河川近くまで迫り、これらから流れ出る多くの沢による小開析で大地平坦面が狭い。そして高麗川と大地の比高差が4〜5mと大きく、しかも河岸が切り立った、ある意味独特な「場所」だ。建築学・都市計画学者のジョナサン・バーネットの、「成功した都市は、ほとんどが川か港沿いで成長している。というのはそれらの都市では、水上を経由して大量の物財を最も効率的に移動させることができたためである」という言葉ではないが、政治の本拠地を一箇所に定めず、自然の地理を有効活用しつつ、山城や平城を建てることで国防に最大限の配慮を払い、それゆえに新羅や百済のみならず、大国の隋や唐から容易に滅ぼされることがなかった高句麗ならではの地理学・地政学の知識が活かされていたのかもしれない。

また、日本文学研究者の岩田大輔は、高麗郡には8世紀前半以降の集落跡に加え、当時の武蔵国にあっては、1郡1寺が一般的だったにもかかわらず、女影廃寺、高麗氏の氏寺とされる大寺廃寺、高麗神社そばの聖天院の前身と考えられている高岡廃寺の合計3寺も存在したということは、「若光」が実在した人物か否かはともかく、大きな指導力を持った人物、あるいはそれに基づいた集団がいなければ、これだけの大事業がなされなかったこと。そして高麗郡が置かれる8年前に近在の秩父で銅が発見されている。銅を採掘し、それを精錬することは国家事業レベルのことである。

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