天皇に即位したか否かが長年議論されてきた幻の天皇と廃れた古墳の話 (2/8ページ)

心に残る家族葬

それゆえ、遠賀川の上り下りの中で、地域を治めた人々のための古墳の築造形式である「北部九州式」、すなわち遺体が安置された玄室(げんしつ)そのものは長方形で、扁平な石材を積んで壁を構成する。そしてその床と天井が平行の平天井で、玄室に通じる道は短く、閉塞は板石を用いるといった「古墳文化」が伝播したと考えられている。 

■長慶天皇とはどんな人物だったのか


一方の長慶天皇とは、南北朝時代の混乱の中、不運のうちに亡くなったとされる天皇である。しかも、天皇に即位したか否かが長年議論されてきた、ある意味「幻の天皇」でもあった。そもそも南北朝時代とは、後醍醐天皇(1288〜1399)に背いた足利尊氏(1305〜1358)が京都に別の天皇を立て、「北朝」を称し、一方の後醍醐天皇は奈良県の吉野に朝廷を移し、「南朝」とした1336年から、南朝と北朝が統一した1392年までの時代を言う。長慶天皇は、南朝で後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇(1339〜1368)の皇子で、1368〜1383年まで天皇の座に就いていた。長慶天皇自身は、北朝との和睦交渉を晩年に行なっていたという後村上天皇とは異なり、対北朝強硬派だったと言われている。その根拠として、1385年に、高野山とゆかりが深い丹生都比売(にふつひめ)神社に長慶天皇が納めた「長慶院御願文」だ。それによると、「今度の対決が私の願った通りになったら、特に誠意をもってお礼にお参りに伺います」と記されている。しかしここで言う「相手方」が北朝の足利方のことなのか、1383年に天皇の位を譲ったものの、不仲だったとされる弟の後亀山天皇(1350?〜1424)のことなのかは、今現在わかっていない。ただ言えるのは、後亀山天皇は北朝との和睦派であったことから、長慶天皇の北朝への徹底抗戦の意思が窺える願文である。とはいえ長慶天皇自身は、皇族の中で長らくなされて来た『源氏物語』(平安時代中期成立)研究を引き継ぐ形で、1381年に注釈書の『仙源抄(せんげんしょう)』を著した。そして「文学環境」としては京都に比べると「鄙(ひな。

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