天皇に即位したか否かが長年議論されてきた幻の天皇と廃れた古墳の話 (4/8ページ)

心に残る家族葬

1975(昭和50)年に、朝日新聞社筑豊支局の角正年が地域の古老から聞き取った話によると、長慶天皇が都から碓井に落ち延びて来た。足利という悪侍への恨みから、この塚の上で切腹なさり、来世まで足利を呪ってやると言いながら、塚石に息を吐きかけ、塚の下の洞窟に入って行かれた。それ以来ここがそのように呼び慣わされてきたのだという。

■碓井町で信じられてきた長慶天皇にまつわる言い伝え

また、1895(明治27)年に、筑前国遠賀郡島門村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の村人・井口彦市らが、福岡県知事・岩崎小二郎に、長慶天皇の御事蹟調査の上申書を提出した。そこで知事の命を受けた官吏・磯田正敏(生没年不明)は「御塚」「鬼塚」を調査し、『潜龍遺事』(1897年)を書き記した。そして「これは長慶天皇の御陵である」と結論づけた。磯田によると、当時の人々は、北朝と足利氏に追われた天皇は、わずかな共を連れて碓井に来て、行在所を置かれた。しかし1400年3月17日未明、「来世に到るまで、暴虐の者あるときは、再び人間に生まれ出てそれらを誅すべし。天地の神にこれを誓う」と言い残し、頭を東に向け、悲しみと怒りに身を震わせつつお隠れになった。天皇を看取った村人たちは、密かに碓井山(琴平山のことか)で火葬にした。そして涙ながらに塚を築いたが、北朝や足利をはばかり、この塚は天智天皇を祀ったものと称した。時を経て1404年8月に、後亀山天皇の第四子で、京都の十念寺(じゅうねんじ)を開基した眞阿(しんあ)上人(1374〜1440)が碓井の地を訪れた。上人を歓迎した土地の有力者・種光光祐は千手寺(せんじゅうじ)を建立し、寺内に石塔婆を建て、長慶天皇を供養したという。非業の内に亡くなったとはいえ、長慶天皇はこの地で一皇子一皇女に恵まれ、その子孫は土地の名家・河津家を継いだ。その証拠として、「長慶天皇の宸筆」とされる書が河津家に伝わっていたという。

何故このような言い伝えが碓井町で信じられ続けてきたのだろうか。

■民俗学者の柳田國男によると…

柳田國男は「昔話」、「伝説」の違いを以下のように述べている。昔の人々は例えば、石の表面に凹(くぼ)みがあり、足跡のような池があると、それがそのまま「だいだら坊」という巨人が歩いた跡だと、素直に信じていた。

「天皇に即位したか否かが長年議論されてきた幻の天皇と廃れた古墳の話」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る