介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決が下され、再起誓うも8年後に自殺。 (2/7ページ)

心に残る家族葬

父親は有名な京友禅の糊置き職人だった。1950〜60年代は高級呉服がよく売れ、一家は裕福だった。そして職人気質の父親は口より先に手が出る、子どもの躾に厳しい人物だった。常々Aに、「貧乏であっても、人から後ろ指を指されることはしてはいけない」「他人に迷惑をかける生き方をしてはいけない」と言っていた。跡継ぎのAは、父親の教えを愚直に守って生きていた。Aは高校卒業後、父親の弟子となり、家業を手伝っていた。しかし呉服そのものの国内需要が減っていき、1980年代後半に、Aの家は廃業に追い込まれてしまった。その後Aは、警備員や製造工をして食いつないでいたが、父親が1995年に亡くなってから、母親の様子がおかしくなってしまった。自宅で「キツネが出る!」と騒いだり、ひとりで買い物ができなくなってしまった。そんな母親に下された医師の診断は、認知症だった。

■父を亡くした後に母が認知症を患う。そして生活はどんどん苦しくなっていった。

更にAの経済状態も逼迫していく。1998年に勤めていた職場をリストラで追われ、工場の派遣従業員になることを余儀なくされる。当時の職場の上司によると、Aは生真面目で、現場での評価も高かったという。その間、親類からいくらかお金を借りたり、所有するアパートに半額の家賃で住まわせてもらったりはしていたものの、母親の症状はひどくなっていく一方だった。2005年の春頃には、母親は夜間にほとんど眠れなくなってしまった。30分〜1時間おきに「トイレ」と言って起き上がったり、家の外に出て行こうとするのだ。その結果、Aは慢性の寝不足状態だったが、朝から仕事に出かけ、家に戻ってからは、家事一切と母親の介護を真夜中まで続けていた。7月には、Aが仕事に出かけている間、外に出て道に迷ってしまった母親が警察に保護されることが頻発したため、Aは仕事を休職することを決意した。介護保険サービスを申請したところ、母親は「要介護3」と判定され、週5回、デイサービスに通うことになった。しかしA の休職によって、それまでの月額およそ15万円の給料がなくなり、2ヶ月ごとの母親の5万円の年金に頼るだけとなった。このままでは介護サービスの自己負担分も賄えない。悩んだAは区の福祉事務所を訪れて、職場に復帰するまで生活保護を受給できないかと相談した。

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