介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決が下され、再起誓うも8年後に自殺。 (3/7ページ)

心に残る家族葬

しかし職員から、「働けるのだから、頑張って欲しい」と諭されたため、Aは申請を断念した。その後Aは、母親担当のケアマネージャーに相談したりもしたが、状況は変わらなかった。母親の症状はますますひどくなっていく一方で、復職のめども立たない。Aは9月に派遣会社を辞め、母親をつきっきりで介護した。そして10月から3ヶ月間、失業保険をもらって生活をしのいだ。その間も、「在宅介護がしたいので、生活保護を受けられないか」と福祉事務所に相談に出向いたが、今度は失業保険の受給を理由に、断られてしまった。

■生活保護を受けることができなかったっことで事態は益々悪化していった

Aはやむなく、母親のデイサービスを週2回に減らし、介護と両立できそうな仕事を探したが、一向に見つからない。12月には失業給付が終わった。母親のデイサービスも打ち切り、カードローンを使って、当面の生活費を工面した。同時にAは、もう死ぬしかないと絶望し始めていたが、母親は「生きたい」と言う。その言葉に踏ん張って、年を越した。カードローンの限度額25万円を使い切っていたため、2006年1月下旬には、先月のデイサービスの支払い3600円を済ませた後、手持ちの金は7000円しかなかった。2月分の家賃30000円を支払うことができない…入居期限の1月31日、Aは心中を決意した。その朝、生活を切り詰めるため、食事を1日2食にしていたふたりは、パンとジュースだけの朝食をいつものように食べた。その後Aは、部屋をきれいに掃除した。「もうこの家には住むことができない。出て行って死ぬしかない」と、親類宛に遺書を書いて、6畳間のテーブルに置いた。包丁やロープをリュックサックに入れ、部屋の電気のブレーカーを落とした。

■そして、いよいよ母と心中することに。

寒空の下、あたりが暗くなるまで、Aは母親を乗せた車椅子を押しながら、Aが生まれ育った京都市中心部の街中や鴨川のほとりをグルグルとさまよい続けた。午後7時ごろ、母親が「家に戻ろうか」と言った。アパートの前に来たものの、部屋には戻れない。Aは死に場所を探す中、殺害現場となった、桂川の河川敷に行き着いた…

    2月1日の朝6時、Aは母親と最後に交わした会話、

    「もう生きられへんのやで。

「介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決が下され、再起誓うも8年後に自殺。」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る