清原和博、長嶋一茂、松井秀喜…池山隆寛が語る「プロ野球黄金時代」 (5/5ページ)

日刊大衆

■女子アナとの出会いは?

――かつては“豪快な夜遊び”もプロ野球選手の魅力の一つであった。池山氏の現役時代は“昭和のニオイ”が残る最後の世代かもしれない。

池山  当時の選手は、夜遊びも全力でしたよ(笑)。僕も広澤さんとつるんで、毎日飲みに行ってました。西武の選手は六本木に通っていたようですが、飲みの場で鉢合わせしたことはないですね。というのも、僕らにとって東京は体を休める場所(笑)。メインは地方でしたから。次の日が雨の予報だからと朝まで飲んで、翌日部屋のカーテン開けたら、カンカン照り。「中止ちゃうんかい!」なんてことも、しょっちゅうありましたよ。飲みすぎた次の日の練習では、ユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで“汗出し”。汗をかいて酒を抜くんですけど、おかげで広澤、池山は、いつも真っ先に練習に出ていました(笑)。

 当時はよく“プロ野球選手は女子アナと出会いがある”と言われてましたが、女子アナなんて全然、縁がなかったですよ。女子アナ合コンは古田たち、僕らはもっぱら“クラブ活動”でしたから(笑)。

――2018年まで楽天のコーチ、2軍監督を務めていた池山氏。今なお現場への熱い思いは健在だ。

池山  多くの人との出会いによって、今の僕があるのは間違いありません。さらに加えて、出会う順番にも恵まれていたと思います。野村さんの前にヤクルトの監督だった関根(潤三)さんは選手の長所を伸ばす方針だったんです。だから細かいことは言われず、僕も結果を恐れないで、ノビノビとプレーすることができた。チームが弱かったから、1軍で早くから出番がもらえたのも大きいですね。経験を積んで、選手としての土台を作ることができたと思います。

 そして一人前になったときに、野村さんと出会って、それまで知らなかった野球を勉強できた。関根さんの楽しむ野球から、野村さんの勝てる野球へ――。本当にいい流れで成長できたんじゃないかと思います。

 もし、プロ入りしてすぐに野村監督だったら、頭と体がついていけたかどうか……。今、僕はユニフォームを着ていませんが、もう一度、指導者としてグラウンドに立ちたい。できれば古巣のヤクルトで、若い選手たちを指導してみたいですね。

いけやま・たかひろ1965年兵庫県生まれ。1983年、ヤクルトに入団すると、走攻守三拍子そろった遊撃手として活躍。豪快なフルスイングから“ブンブン丸”の愛称で呼ばれ、野村監督の下、日本一に4度輝いた「ヤクルト黄金期」を支えた。2002年の引退後は、楽天やヤクルトでコーチを歴任。

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