太平記の巻十に登場する新田義貞と東村山市の徳蔵寺にある元弘の板碑

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太平記の巻十に登場する新田義貞と東村山市の徳蔵寺にある元弘の板碑

埼玉県所沢市からほど近いところにある、東京都東村山市諏訪町(すわちょう)に所在する、臨済宗大徳寺派の徳蔵寺(とくぞうじ)はかつて、「ちらかし寺」と呼ばれていた。それは60年ぐらい前まで、本堂から庫裡(くり)にかけて板碑や石器・土器・国分寺瓦・古銭などが雑然と並べられていたからだという。

しかし今日では、およそ170基の板碑(いたび)、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)を中心とした、考古学・歴史学的に貴重な遺物を保存・展示している、2階建ての大きな「板碑保存館」が建てられている。

それは、十七世の蒨渓宗篤(せんけいしょうとく)和尚(在職1868〜1909)、十八世の太僊義栴(だいせんぎせん)和尚(在職1916〜1952)、十九世の英龍宗珖(えいりゅうそうこう)和尚(在職1955〜2000)が積極的に、先に挙げた価値ある文化財の保護・調査・研究に取り組んでいたことによる。しかもここには、昭和25(1950)年に国指定重要文化財に指定された「元弘(げんこう)の板碑」こと、「板碑 元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑」という、『太平記』(14世紀中頃成立か)巻十に登場する武将・新田義貞(?〜1338)ゆかりの、歴史的のみならず、民俗学や仏教史学的にも貴重な遺物があるのだ。

■板碑の歴史


「板碑」とは、供養のために建てられた塔婆(とうば)の一種で、関東では現在の埼玉県秩父市で採れる「緑泥片岩(りょくでいへんがん)」を用い、山形の頭部に二段の切り込みがある板状のもののことを言う。埼玉県熊谷市須賀広(すがひろ)で発見された、鎌倉時代(1185〜1333年)中期の嘉禄(かろく)3(1227)年造立の板碑が、日本最古のものとされている。

鎌倉幕府が滅亡した元弘3(1333)年から建武の中興(1334年)、そして南北朝時代(1336〜92年)にかけて急増した。

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