【真田丸と現代医学】真田昌幸の最期は「うつ病」の可能性アリ / 真田幸村の父にして稀代の名将を蝕んだ心の病 (5/6ページ)

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・ともかく早めの受診が効果的
ちなみに「大うつ病」というのは「重症の」うつ病を表すのではなく「典型的な」うつ病を意味し、その治療法は「充分な休養」+「薬による治療」です。何かおかしいな……と思ったら、ともかく早めの受診が効果的です。

・息子の幸村もあと少しで危なかったのでは?
さて昌幸ですが、結局、上田に帰ることは叶わず、1611年(慶長16年)6月4日、九度山でその生涯を閉じました。享年65。昌幸が死去した後、主立った家来は信之の元へ行ってしまい九度山は閑散とします。それから大坂の陣までの間に、幸村が何をやっていたかの記録はあまり残っていません。奥さんが側にいたから九度山生活は堪えられたんですかね。昌幸が死んだ後、義兄の小山田茂誠に宛てた手紙を見てみましょう。

・歯も抜けた……
手紙の趣旨は「鮭をもらったことへの礼状」なのですが、その中に「我々なとも去年より俄ニとしより、事の外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候」という表記があります。現代語にしますと「私も去年よりにわかに年をとり、ことのほか病気がちになりました。歯なども抜け、ひげも黒いところがあまりなくなりました」。

・豊臣方の呼びかけに呼応した信繁
このとき幸村はまだ40代です。やばいよ、父ちゃんと同じく生き甲斐が無く、弱ってきてるよ……。このままことが起こらねば、おそらく親子で同じような転帰をたどったに違いありませんが、1614年、豊臣方の呼びかけに呼応した信繁は九度山を出て大坂に入城。その後始まる彼の大活躍はドラマにお譲りしましょう。

・享年93のウルトラ大往生
人は生き甲斐を無くした時、鬱(うつ)になることがままあります。

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