【現代医学】すごく腹が減っているときに食べると死ぬ危険アリ / 戦国時代に「兵糧攻め」で大量の餓死者 (3/8ページ)

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『三木の干殺し』から半年後の1580年(天正8年)6月、2万の大軍を率いた秀吉は鳥取城を包囲。城主の山名豊国は3ヶ月間籠城した後、織田に臣従しました。ここで終わっていればアッサリな話でしたが、むろん続きがあります。

・若狭から商船団を派遣
徹底抗戦派だった家老たちが城主の豊国を追い出し、毛利側に付いたのです。1581年(天正9年)3月、鳥取城は新城主として毛利方の吉川経家を迎えます。これを機に、秀吉は再び兵糧攻めを開始。そしてそのヤリ方は、三木城に比べてさらに徹底したものでした。
まず、若狭から商船団を派遣し、米を高値で買い占めます。一説ではこれにつられて鳥取城の兵糧米すら売られたという話もあります。

・20日分の兵糧は瞬く間に枯渇
同時に秀吉は、周囲の村民をわざと城へ逃げ込ませました。もう説明は不要ですよね。食い扶持を増やし、一刻でも早く飢えさせようとしたのです。実際、元々1500人の兵が籠っていたところに約2000人の農民が城に逃げ込んだと言われており、20日分の兵糧は瞬く間に枯渇。間もなく飢餓地獄が始まり、『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されております。

・ついに食べるものがなくなる!!
包囲から4ヶ月後の10月頃には餓死者が出始め、最初こそ死者を埋葬していたものの、牛馬、雑草すら食べるものがなくなり、ついには……。まだ息のあるうちからナタや小刀でバラバラにして……。

・頭の部分が美味しい
鳥取城には、日本史上、非常に稀である“人肉食”の記録が残っております。飢えから逃れたい一心で柵をよじ登ると秀吉から容赦のない鉄砲が射かけられ、傷つき倒れていく者が多数おりました。そこに人々が群がるのです。まだ息のあるうちから、家畜を捌くが如くナタや小刀でバラバラにして食べた――そんな記録が残っているのです。特に頭の部分が美味しいらしく取り合いになったそうで……これについては後述します。

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