デーモンズ・コアの臨界事故で被ばくしながらも研究を止めなかった物理学者、ルイス・スローティン博士 (4/5ページ)
そして5日目になって、博士の白血球の数値が激減した。体温と心拍数も不安定になり始める。「この日から、容体が急激に悪化した」とカルテには記載されている。スローティン博士は吐き気と腹痛に苦しめられ、体重も減り始めた。その内部被曝によるやけどについて、ある医師は「三次元の日焼け」と評している。
7日目、意識の混濁が見られるようになった。唇は真っ青で、酸素テントに入れられる。やがて昏睡状態に陥り、事故から9日目に亡くなった。35歳だった。遺体は軍の棺に納められて、ウィニペグへ船で運ばれた。
スローティン博士は軍の統制下にあったロスアラモス研究所で放射線に被曝して亡くなったわずか2名のうちの1人だ。その黎明期に当たる1943~1946年には、20名以上が亡くなっており、その死因は様々だ。しかしマンハッタン計画に起因する放射線事故で命を落としたのはスローティン博士とハリー・ダリアン博士だけだ。この事故の9ヶ月前、ダリアン博士は全く同じプルトニウムのコアを使って別の臨界実験を行っており、やはり同様にタングステンカーバイドを落として臨界を引き起こしてしまった。彼は事故から1ヶ月後に亡くなっている。
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スローティン博士の事故以来、ロスアラモス研究所ではそれ以上の臨界実験から手を引いた。とはいえ、実験が危険であることはよく知られていたことであり、エンリコ・フェルミなどはスローティン博士に実験を続ければ、「一年以内に死ぬぞ」と警告しているほどだ。
しかし第二次世界大戦という緊迫した情勢においては、安全性よりも、成果が求められた。手作りの臨界質量を持つ物質には、綿密な検討などされることなく必要に応じてさっと手が加えられた。しかし、スローティン博士が亡くなった頃には、そこまで急ピッチで物事を進める必要はなくなっていた。冷戦期、大方の懸念を他所に、実験はゆっくりとしたペースに落ち着いた。事故から間もなくして記されたレポートには、以降の実験は遠隔操作を採用し、よりリベラルな目的のために行われるべきであることが示唆されている。