田中角栄 日本が酔いしれた親分力(8)限られた時間を最大に活用 (1/3ページ)
71年(昭和46年)7月、53歳で通商産業大臣に就いた田中角栄の秘書官として、小長啓一は仕えることになった。
田中は、目白の田中邸で毎朝7時から9時頃までの2時間、1組3分、毎日40組、次々と訪問客たちの陳情を受ける。
小長が〈なるほどなァ‥‥〉と感心することもあった。中には、部屋に呼んで説明を聞く前に、田中が先に言い放ってしまう。
「君、あの話は今回ダメだよ」
選挙区から来た相手の顔を見た瞬間、即座に追い払うのだ。小長は驚くしかなかった。
〈大臣は選挙区をそこまで把握しているのか。これは、とても真似できない〉
陳情の場合、担当の秘書がいるため、小長はその場に同席していないが、陳情担当の秘書の動きを見ていれば、田中が瞬時に一つひとつの陳情を裁いていることがわかる。陳情内容に合った各省庁へつないでやり、通産省管轄の陳情であれば、すぐに秘書から小長に話が伝えられた。
田中は、頭の回転がよく、ポイントを素早くつかみ、次々と指示や助言を与えるのであろう。その様は、まるで腕利きで評判のいい医者の往診のようであった。
できることは「わかった」と言う。「わかった」というのは、陳情を理解したということではなく、その陳情を引き受けた、対応可能である、という意味である。
田中派の参議院議員には、ほとんどの省庁の官僚を引き入れていた。田中派が「総合病院」と呼ばれたのは、そのせいである。
彼らの中で誰の力を使えばできるかを瞬時に判断し、「わかった」と伝える。ただし、すぐに引き受けられない時は「1週間待て」と間を置いた。
逆にできないことは、はっきり「できない」と言う。物事を曖味にし、いつまでも結論をズルズルと引っ張り、相手を生殺しにするような真似はしない。
そして、その陳情を秘書に2日か3日で手際よく処理させて、連絡させる。この田中のすばやい対応に、陳情客の感激も倍加する。
〈やっぱり、田中先生はすごいんだ〉
初めての客と会うのも、やはりわずか5分だ。その客が2度目にやって来る時には、田中は事前にその客自身、あるいは家族、親戚などの近況を秘書に調べさせておく。