AI(人工知能)をめぐり82歳が考える(3) プログラミング義務教育化に望むこと (3/8ページ)
例として、黄色い球体をロボットのアームに保持させて、これを上下に運動させる。あるいは種々に色分けされた、音色の違う振鈴をAIに記憶させ、そのデータを蓄積、学習させる。そうすると、どうなるか?なんとAIは「連想」や「想像」という人間並みの能力を示すようになる、というのである。
実験では、ロボットの脳内を示すコンピュータのディスプレイに、或る振鈴の音を鳴らすと、その色分けされた振鈴の画像が誤りなく現れたり、黄色い球体を認識させると、ロボットのアームが反応したりするようになる。
これが更に進化すると、大人が幼児に対し本を読み聞かせると、彼もしくは彼女の脳内に話のイメージが浮かぶように、そこまで学習したAIは文章から映像を創出することが可能になる、という。このことは、前回で筆者が触れた機械翻訳の限界と、それからの脱却の問題に大きく関わることになる。こうしたレベルに達したとき、最早「機械翻訳」という言葉自体が不適切である、と筆者は言いたい。この段階に達したAI翻訳機能は、人間の能力を完全に超えることになるに違いない。
つまり、簡単な言い方をすれば、最早外国語の自国語への翻訳などという面倒な一手間は不要となることを意味する。それは、たとえ原文がどんな外国語で書かれていようとも(その外国語についての、プログラムさえ用意されていれば)、このAI翻訳機に掛けたとき、その内容をイメージとして直接ディスプレイに表示させることが可能になるから、極端な言い方をすれば、逐語的に翻訳された文章を読むこと無しに、映画のように映像をダイレクトに視聴することによって、その書籍の内容を把握することが可能となる筈である。言う迄も無いが、そこには従来の逐語訳を介しての二国語間の置き換えを経由し、そこから得たイメージを更に人の脳内や映像再生装置内で再構築するなどという、まどろっこしい処理は全く不要となるわけである。しかし、一方で、暇を見つけて手持ちのよい書籍を開き、珈琲を啜り、煙草の煙をくゆらせながらページをゆっくり繰りつつ、話の展開を密かに楽しむ、という風情は期待すべくも無くなることであろう。
この段階に至ると、このAIは自ら文章を作成し、絵画を描き、作曲も手掛けることになる、という。