83歳筆者が考える「近頃の若いものは」論...かつての「太陽族」も今や (4/8ページ)

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また、英文学者、吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評し、「ハード・ボイルド小説の下地がこの作品にはある」とした上で、「その方を伸ばして行けば、『オール讀物』新人杯位まで行くことは先づ請け合へると思ふ」と述べている。

更に、宇野浩二は、「読みつづけてゆくうちに、私の気もちは、しだいに、索然として来た、味気なくなって来た」とし、「仮に新奇な作品としても、しいて意地わるく云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャ(-)*ナリズム)に迎合するように、(中略)〈拳闘〉を取り入れたり、ほしいままな〈性〉の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、(中略)書きあらわしたり、しているからである」と批判している。

以上に掲げた選評はどちらかと言えば、否定的なものだが、それは筆者の見方が、矢張り、それらの意見の方に傾いているからだ、と己の立ち位置を、ここで明らかにして置こう。

*(注)丸括弧内の長音記号"-"は、引用原文には無かったものだが、筆者が補足した。

この作品の評価や解釈について、何人かの評論家の文章を編集したウィキペディアによれば、『太陽の季節』は発表当時、新しい風俗として話題作となり、賛否両論で文壇を賑わせたものの、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない、としており、この点について、奥野健男は文庫版の解説の中で「既成の文学者たちが、先入観を持ってこの作品を否定的に眺め、まともに取り上げようとしなかったため」と分析している。

山本健吉は、「スポーツ青年の無道徳な生態」を描いた『太陽の季節』について、「これはたいへん魅力に富んだ小説だが、現代小説の行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年を描いても、三島は彼の抱いている小説美学の必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者の試みが、宙に浮いている。」と評している。

更に、村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年の主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公の先駆的存在となっているとし、三島の文体が石原に影響したことを指摘している。

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