当時、炭鉱で働いていた炭鉱夫と炭坑馬の関係から考える命の重さや尊さ (4/6ページ)
京都大学を中退後、昭和20年代初頭から、福岡県の筑豊炭田で掘進(くっしん)夫や採炭夫として働いていた、記録文学作家の上野英信(えいしん)が伝える、多くの炭坑が閉山となり、筑豊に失業者があふれた昭和40年代初頭に知り合ったS婆さんのエピソードがある。
S婆さんは佐賀県の貧しい農家に生まれ、幼少期から親兄弟とともに、佐賀・福岡・筑豊各地の炭鉱を流れ歩いていた。明治期の筑豊炭田では、山本作兵衛の炭坑記録画に描かれている通り、ふんどし一丁の男が先山(さきやま)、腰巻きを巻いただけの女が後山(あとやま)となり、ペアで人海戦術の作業を行っていた。先山が切羽で掘り出す石炭を、後山はスラと呼ばれる橇(そり)状の箱に入れ、カネカタ(水平坑道のこと)まで、牛馬が荷を曳くように、四つん這いになって曳き出す役割を、文字通り、「担う」のである。しかも坑道は傾斜が低く、狭い。一瞬の油断も許されない命がけの仕事だった。しかもS婆さんの場合、若い頃、先山についてスラを曳いているだけでは生活ができなかったので、たったひとりで2人の先山の後について、スラ曳きをしていた。そんな状況だったことから、座って弁当を食べる暇もなかったため、スラを曳き曳き、腰に下げた袋からにぎりめしを取り出して、口にほおばっていた。そんなS婆さんは、自分の苦難の人生を上野に語り終えた後、「チキショウ、この俺に字が書けさえしたらのう…」と、後悔とも自嘲ともつかない一言をもらしたという。
■炭坑馬に注がれていた深い愛情
炭坑の荒くれ男顔負けの働きぶりだったS婆さんは、仲間で集まって、「死んでまた生まれ変わってくるとしたら」という話しになったとき、みんなが「男がよか(=いい)」、「女がよか」、「坑夫は嫌じゃ」、「百姓も嫌じゃ」と言う中、「あたしゃ、ほかになーんも(=何も)望みはなかが(=ないが)、でくる(=できる)ことなら、ぜひ、馬車馬に生まれてきたかよ(=生まれて来たいよ)」と言った。一座は急に静まり返った。それは、上野を含めた仲間たちは、S婆さんの苦労に満ちた人生を知り尽くしていただけに、どんな高望みをしても、誰も笑うものはいなかったからだ。S婆さんは「あたしゃ、こまか(=小さい)ときから、一生、スラば(=を)曳いてきた。慣れた仕事たい(=だ)。馬車馬がいちばんよか(=いい)。