当時、炭鉱で働いていた炭鉱夫と炭坑馬の関係から考える命の重さや尊さ (6/6ページ)
イギリスのアシントン炭鉱の状況と日本の筑豊炭田とは、必ずしも等しく重なるものではないが、フレッドもまた、坑内馬に生まれ変わりたいS婆さんと同じ、「みずからを狂気と化すことなしには、生きることのできない極点」であった「狂気の世界」を生きたことは間違いない。だからこそ、自分たち同様に働く馬に対しても、愛着や愛情という言葉以上の連帯感をもって同じ時を共に過ごしていたからこそ、絵として書き残したのだろう。
■最後に…
「馬の優しい目がかわいい〜」「癒される〜」と我々は、牧場や競馬場などで直接馬に触れる機会があるたびに思わされるが、フレッド・レイドラーやS婆さんが経験して来た人生の苦難を思うと、そうした言葉が持つ、「軽々しさ」「エゴイズム」に一抹の座り心地の悪さを感じてしまう。それは、日々「狂気の世界」を生きた坑夫たちの方が我々よりもはるかに、自分自身や坑内馬を含めた仲間たちの「命の重さ」を体感しながら生きていたからである。
アシントンにも筑豊にも、多くの人々の血と汗と涙であふれた炭鉱は、もはや存在しない。我々ができることは、せめてそれらを「過去の出来事」であるとして忘れ去り、ただひたすらに「前を見る」ばかりではなく、時にそこを生きた人々や場所に、自分自身の「今」や「過去」を重ね合わせ、「自分があそこで生きていたら、何をしただろう…」などと想像を巡らせ、「自分自身のこと」とすることではないか。アシントンで死んだ坑内馬のぬくもり、S婆さんが「生まれ変わった」坑内馬の息づかいを感じることで、炭鉱が栄えた時代とは全く無関係な「過去」や「今」を持つ自分が逆に「活かされる」ような気がしてならない。