消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回) (4/8ページ)

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が、ダムの建設により家がダム湖の底に沈んでしまったのを機会に村を出た。大学卒業後、奈良県庁に長く勤務し、そののち奈良テレビの社長を5年ほど務めた。十津川には実に50年ぶりに帰ってきた。
「末っ子だったので帰るつもりはなかったんですが、兄が亡くなって......」
村への特別な思いというより、まずは「墓を守る」「家を守る」ために再び十津川の地を踏んだのだという。

幕末のころ、十津川村は尊皇攘夷派として多くの十津川郷士を京都に送り込み、文久3年(1863年)薩長とともに、御所の警衛の任にあたっていた。その中心となった郷士のひとりに、上平主税(かみだいらちから)という人物がいた。上平は医術、国学を学び、「素朴な天皇好き」(司馬遼太郎『街道を行く』より)であったと言われる。明治2年(1869年)、新政府の要人であった儒学者、横井小楠が暗殺されるが、上平はこの事件の黒幕とされ9年もの間、伊豆に配流された。のちに許され、十津川に戻り玉置神社の宮司となった。明治20年(1887年)、今から120年前のことだ。
弓場宮司の話を聞きながら、この上平主税のことを思い出した。若いときに都に出て 晩年、十津川に帰ってきた話。このシンクロニシティ。偶然か必然か、はたまた玉置山の持つ場の力なのか。
――十津川を出で、十津川に帰り来る――
弓場宮司によれば、最近増えた参拝者のほとんどが村外からの客だそうだ。しかもその6割くらいが東京方面から来ているとのこと。村人の素朴な信仰の対象だった神社は、2000年の歴史の中で初めてその景色が変わろうとしている。が、外から来た人は留まらず、また外へと帰って行く。そして、村人だけが留まり、日々の往来が続いていく。

十津川村の現在

現在の十津川村のデータを簡単に記しておきたい。
十津川村は奈良県の最南端に位置し、熊野本宮を抱える和歌山県田辺市などと接している。奥吉野と呼ばれ、紀伊山地によって長らく交通的に隔絶された地域であった。十津川は「遠つ川」、遠い地であることが村名の由来であると言われている。公共交通機関ではバス以外のアクセス手段がなく、隣町、五條市から十津川村中心部までは3時間ほどの所要時間だ。ちなみに大阪駅から五條までは電車で1時間半ほどである。

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