消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回) (7/8ページ)

Jタウンネット

正勝は、祖父、父の遺志を継ぎ、南朝の武将として奮戦するものの、北朝側の武将、畠山基国の軍勢に破れ、根拠城としていた千早城を失う。その後、再起を図るために、弟である正元とともに十津川に逃れた、という歴史の一場面としてこの村が登場する。正勝は10年ほど十津川に潜伏したが、再挙を果たせず病没、この地に葬られたと伝えられる。その楠木正勝が隠棲した武蔵という集落に正勝の墓がある。今も毎年4月3日に、村人によって追悼祭が営まれている。

楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。
楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。

十津川の名前をもっとも有名にしたのは幕末に活躍した十津川郷士であることは間違いない。天誅組に2000人もの郷士が参加した(のち、朝敵となったことが判明し離脱)との記録がある。京都にも屋敷を構え(「十津川屋敷」と呼ばれた)、およそ200名が御所の守衛として働いた。これを村では「京詰」と呼んだらしい。勤王の志士の一翼を担っていたのである。戊辰戦争でも十津川郷士たちは、北越、奥州、函館と多くの犠牲を払いながらも従軍した。維新後、新政府から下賜された恩賞は、先に述べた文武館、のちの十津川高校の校舎建設と維持に充てられた。
もっとも有名な逸話は、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されたとき、暗殺者たちは店先で「十津川郷の者」だと嘘をついて店の者を安心させたことだ。十津川郷士たちは、それほど龍馬やその仲間たちから信用されていた。龍馬は、とりわけ中井庄五郎という若い十津川郷士を可愛がっていて、「青江吉次」と鑑定された刀を彼に贈っている。十津川村役場近くにある歴史民俗資料館には、刀を贈られたときに添えてあった、龍馬直筆の手紙が所蔵されている。

ほかにも保元の乱にも参加したという話(『保元物語』)、大坂冬の陣で徳川方について戦ったという話、などなど、十津川は日本の歴史の節目にことごとく顔を覗かせている。この規模の村、言ってみれば寒村で、これほど華々しい歴史を有する村をほかに知らない。

「消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回)」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る