消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回) (6/8ページ)
吉野に隠棲していた大海人皇子が、天智天皇崩御ののち挙兵、そのまま大友皇子を打ち破った、日本史の授業では必ず出てくるあの内乱である。十津川村の年表にはこう描書かれている。
「672年 弘文元年 壬申の乱の際、郷人は天武天皇(大海人皇子)に従い、功あって三光の御旗及び御製を賜って租税も勅免されたと伝える。」
この"郷人"というのが十津川の人々である。三光とは太陽、月、星の3つの紋のことであろう。御製(ぎょせい)というのは天皇の詠んだ和歌のことで、それは
「とをつ川吉野の国栖のいつしかと 仕へぞまつる君がはじめに」
という歌であったと伝えられている。
そして、このときの功により免租地となった。以来、明治6年(1873年)に地租法が改正されるまでの約1200年間、十津川は年貢を納めなくてよい別天地だった。
とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり

御赦免地歌碑(十津川村ウェブサイトより)
五條市大塔町を通って、村境の城門トンネルを抜けたところに、上の歌が彫られた歌碑が建っている。江戸のころに歌われた里唄ということらしい。太閤検地を経ても、徳川の時代になっても、十津川は免租地であり続けた。司馬遼太郎はそのことについて「そもそも年貢である米を作るだけの平地が(十津川には)なかった」からではないかと考察している。租税を課したとしても、その租となるべき米が獲れないのでは租税の意味がないからだ。
それにしても......村の年表が壬申の乱から始まるなどというのは、日本広しと言えどもこの十津川村くらいではないか、と思う。
14世紀にも十津川は登場する。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇は吉野に入り自らの朝廷を開く。いわゆる南北朝時代。その忠臣として名高い楠木正成の孫に楠木正勝がいた。