“ふつう”の日本人警察官が命を落とした。1993年、カンボジアとPKOの現実 (2/7ページ)
1989年にはフランスのパリでカンボジア和平に関する会議が開かれ、そこに日本も出席、〝アジアの大国〟として日本はカンボジア和平に深くコミットしていくことになる。
そして1991年、パリでの国際会議でカンボジア国内四派の間で停戦合意がなされ、20年におよんだカンボジア内戦が終結。その後に展開されるPKOで「顔を見える外交」を目論む日本は、カンボジア再建の第一歩となる民主的な総選挙の実施を目指す「国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」に、本格的に人員を派遣することを視野に入れていた。
PKO協力法の法案作成を進めていた当時、外務省条約局長だった柳井俊二氏は自衛隊の派遣を念頭としていたが、国連がPKOに文民警察部門を新たに加えていたことから、警察官の派遣も前提に法案作成を進めることになったというが、「武器を携行する自衛隊だけ送るより、文民警察、つまり(丸腰で武器を携行しない)警察官も参加するということになれば、自衛隊派遣をめぐる世論の風当たりも弱くなるのでは、という読みがあった」と見る政府関係者もいた。
自衛隊の海外派遣は違憲ではないかという声もあがったが、以下の「PKO参加五原則」と呼ばれるものを派遣の条件とし、難産の末にPKO協力法が施行された。
1、紛争当事者間の停戦合意の成立
2、紛争当事者の受け入れ同意
3、中立性の厳守
4、上記の原則が満たされない場合の撤収
5、武器の使用は必要最小限
しかし、カンボジアに日本のPKO部隊が派遣されてから間もなく、カンボジア内戦の紛争当事者の中でも、過激な勢力であるポル・ポト派が停戦違反を繰り返すようになり、五原則の一番目が崩れているのではないかという見方が強くなっていく。
■武器不携帯が原則の中で「自動小銃を現地で買った」1992年に文民警察官としてカンボジアに派遣された、日本人警察官は75人。
旗手氏らNHK取材班はそのうちの22名へのインタビューに成功し、さらに当時、彼らが記録していた手記(日記)や、普及し始めた家庭用ホームビデオで撮影した映像などから、彼らが置かれていた状況をあぶり出す。