天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 細川護煕・佳代子夫人(下) (1/2ページ)

週刊実話

 上智大学の同じスキー部当時、細川護煕は佳代子に結婚のプロポーズをしたが、佳代子はこれにノーであった。“原因”は、家柄の違いにあった。
 細川の母方の祖父は、戦前の近衛文麿首相である。加えて、細川自身は肥後(熊本)54万石細川家の18代当主であり、言うならば「殿様」の末裔。一方の佳代子が一庶民とあれば、ビビッて当然である。しかし細川は、佳代子との結婚に執着し続けたのだった。

 やがて細川は朝日新聞を退社。昭和44年(1969年)の総選挙に無所属で初出馬、落選、再チャレンジを目指す中でローマを旅した。当時、佳代子は貿易会社に就職、ロンドン勤務だったが、折からローマに出張中であった。どうやら細川が佳代子を追いかけたらしかったが、ここで再度のプロポーズをしたということだった。
 「僕の気持ちは以前と少しも変わっていない。いまは浪人中だが、こんどは次の参院選に出る。是非、一緒にやって欲しい。手助けが欲しいんだ」

 さすがに佳代子も折れ、再プロポーズから約1年半後、2人は熊本の細川の豪邸、その敷地内にある神社で挙式したのだった。時に、細川はその3カ月前に参院選で当選を果たしていた。ちなみに、佳代子はのちに細川の首相のイスが現実味を帯びだした頃、この「殿様宰相」の横顔を週刊誌のインタビューなどで、おおむね次のように語っている。
 「(夫の)小さい頃は、細川家の中に躾役の“おばばさま”がいて、厳しく教育されたそうです。『そんなことで武家の棟梁が務まりますか』と、しょっちゅう叱られていたと言います。その一方で、周囲が『若様、若様』と大事に育ててくれたお陰でしょうか、今さら名誉、権力、出世といった野心は持っていませんね。そこが、人間としても政治家としても“稀少価値”ということかもしれません。政治家になった動機も出世したいのではなく、歴史の中での使命、天命と受け取っているようです。もっとも、こうと決めたら凄い集中力、執念がある一方、“三日坊主”的なこともあるのも事実です(笑)。家柄ゆえということでしょうか」(要約)

 首相になってスキャンダルに見舞われ、粘ったもののある日ポンと政権を投げ出してしまったのも、佳代子の言うこの“三日坊主”的な性格、体質が顔を出したということかも知れない。

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