【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話 (4/6ページ)
(逃げよう。・・・・・・)
咄嗟にそう思った。
もしかすると用水桶の陰に筋骨隆々な男が腕を鳴らして待ち構えているかもしれない。
軽くなった天秤棒を担いで、素早く立ち去ろうとしたが、
「待って、行かせない」
姉女郎が華奢な身体をめいっぱい広げてとうせんぼしたので、足を止めた。
「分かった。わっちが悪かったよ。精一杯描いたが、泣かせッちまったなら謝る。悪かった」
「ええ」、
女は急ににっこり笑って言った。
「ありがとね」。
「え?」
男は思わず訊き返した。
「あの子、自分の身体が初めて好きになれたって喜んで泣いてたの」
女は可愛いあごを嬉しそうにクッと上げた。
「ほんにか」
騙された。
男は、悔しいような安心したような顔で鼻をこすった。
「勿論本当の妹なんかじゃあないの、こんなところだから。それでも美のるは」、
と、女は妹女郎の事を「美のる」と呼んだ。
「五つで女衒(せげん)のオンジに攫われてきた、あたしのいっち大事な妹。楼主は引き取るのを断ろうとしたけれど、あたしが面倒見るから美のるをうちの見世に置いてくれって頼んだんだ。それが、先日の水揚げ以来、自分は汚れちまったんだってすっかりしょげちまって困っていたの。でもあんたのお陰で、身体に故郷の花が咲いたの観音様が宿ったのって大はしゃぎ。今頃きっと、素っ裸で皆に自慢してる。子どもに戻ったみたい。これであの子、廓内(なか)でしゃんと生きていける。ほんにありがとう。・・・・・・」
女は繊手を合わせて拝むようにして礼を述べた。それから、細い指で渋紙籠の中の凧を指して訊いた。
「ねえ、そこにあるの、見ていい?」
「いいよ」
男が頷くと、女は籠の中を覗き込んで一つ取り上げ、空に透かすように高く掲げた。袖が落ち、余分な肉のない子どものような細腕が露になった。その腕があんまり白くて、男の目は思わず吸いつけられた。