【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第3話 (3/6ページ)
部屋に上がると約束通りあの新造が待っていて、にっこりしたかと思うといきなり背を向けてぐわりと襟を寛げて腕を抜き、真っ白な背中を露わにした。そして無垢な微笑みで言い放ったのだ。
「この背中に、刺青の下絵を描いて」、と。
思いもよらない展開に男の下心はがくりとしぼんだが、女の頼みは断らなかった。女が嬉しそうに話す故郷の山村の話を聞きながら、筆一本でその身体に絵を描いた。
土のにおいが吉原遊廓と違って青臭かった事。路傍の名もなき草花に子供たちで好き好きに名をつけた事。空を翔けるトンビに願いを掛けたり、カラスに山のふもとの里の知らせを訊(たず)ねてみたりした事。花々にとまる虫たちを眺めた事。朝陽に微笑むように咲き、夕暮れに口をつぐむ照り降り花が墓に群生していた事。・・・・・・
「ポッポ花も咲いてたの」
とその新造はぽつりと言った。
「ポッポ花?」
「うん。廓内(なか)では一度も見かけた事ねえの。やっぱりおいらの山にしか咲かねえのかな」
新造は、いつの間にか子供っぽい話しぶりに戻っていた。故郷では自分の事をおいらと呼んでいたのだろう。
「そうかもな。わっちもポッポ花てえのは、聞いた事ねえな」
「そっか」
新造の背中が少し寂しそうにしょげて見えた。
男が小半刻ほどで描き上げたのは、女が話した草花やトンビなど山村の生き物たちと、その中央に宿る慈愛に満ちた観音菩薩の姿であった。
少しも手を抜いたつもりはない。
正月だというのに、描き上げた後には汗が散った。
筋彫りが仕上がるのを待たずに辞去したために新造の反応は見ていないが、
(泣くほど、気に入らなかったのか)
まさか彼女の姉貴分が報復に来るとは考えもしなかった。
