三池炭鉱で亡くなった囚人労働者とその埋葬地にまつわる「幽霊橋」 (2/5ページ)
■三池炭鉱で労働者として働かされた囚人

明治6年(1873)に官営による稼働が始まった三池炭鉱の場合、当初は三瀦(みずま)県(現・福岡県筑後地方)の囚人50人を、石炭運搬に使役したことに始まる。それから福岡県・長崎県・熊本県などの監獄の出張所・分監を設け、本格的に囚人労働による炭鉱採掘が行われた。
明治15年(1882)には、鉱山直属の「三池集治監(しゅうじかん)」が設立された。囚人労働者のほとんどが無期懲役を含む長期刑だった。その1年後、大浦(おおうら)坑で大規模な暴動が起こり、坑内に火災が発生するほどだったが、明治21年(1888)に財閥の三井に払い下げられた後も、囚人労働は引き継がれた。当時の全坑夫数の69%を囚人が占めていたという。明治28年(1895)が1917人と最も多かった。そしてそのような囚人労働は1930(昭和5)年12月まで続いていた。
■三池炭鉱は別名「修羅坑」と呼ばれるほどの過酷さだった
当時「修羅(しゅら)坑」と呼ばれた言葉通り、現在の我々には想像もつかない「悲惨」「劣悪」「危険」な環境下でなされる労働だったが、文字通り暗黒の地下深くに入ってしまえば、「(坑内に)下がれば天下たい(だ)」と言われる、彼ら独自の共同体が形成されていたという。「現物」を確認するすべはないが、囚人たちは仕事の合間に厚い炭壁をくり抜き、作業で用いた枕木などを用いて各人の「家」を建てていた。そしてその中には、残飯でつくった濁り酒に加えて、看守の目を盗んで、道行く一般の人々から物々交換で手に入れた煙草・砂糖・卵・菓子があった。更に彼らは立派な鳥居をこしらえ、「山ン神さん」こと、炭鉱の守護神・大山祇神(おおやまずみかみ)をきちんと祀ってさえいたのだ。