三池炭鉱で亡くなった囚人労働者とその埋葬地にまつわる「幽霊橋」 (3/5ページ)
■三池炭鉱での囚人労働が終わった時期とその理由とは
三池炭鉱において囚人労働が「終わった」のは、民選議員の建白書が出された明治7年(1874)以降、高まりを見せた自由民権運動でも、大正年間(1912〜1926)において、自由主義的思潮が世に蔓延した大正デモクラシーによる「人道に反する」といった人権思想の高まりに押されたものでもなかった。あくまでも時代の流れに聡く、なおかつ冷徹な「経営者の側」の都合だった。
昭和恐慌(1930〜31)年による日本国内の不況から、三井鉱山は所有する炭鉱の整理統合、人員削減を迫られていた。また、明治30年代(1897〜1906)以降から積極的に導入され始めた、最新科学技術に基づく大型機械、そしてダイナマイトを用いた発破による採掘法の採用などによって、時折起こる暴動を懸念し、要所要所に何人もの看守を置いて監視しつつ、大勢の囚人を使っての人海戦術による「手掘り」よりも効率よく、多くの採炭量が期待できるようになったこと。そして最新技術導入に適した、四山坑・宮浦大斜坑などが開削されたことによって、それまでの宮原坑・勝立坑・大浦坑が閉坑することになったためである。最後まで残った囚人は、宮原坑の99人だけだった。
■作業中に亡くなった囚人を埋葬した解脱塔と古井戸

民話の中の囚人たちは、どこに行ってしまったのだろうか。かつての勝立坑からほど近い丘の上に、「解脱(げだつ)塔」と呼ばれる、7メートルほどの高さの供養塔を中心とした慰霊施設がある。塔は明治21年(1888)に、三池集治監の官吏員によって建てられたものだという。そこはもともと法務局が持っていた土地で、炭鉱で亡くなった囚人を葬っていた場所だった。囚人が亡くなると、20銭のセメントの空き樽を買ってきて、その中に遺体を入れた。その後、大正10年(1922)前後に、塔の下の土地に炭鉱夫用の社宅を建てることになり、土地を造成した。するとそこから人骨が次から次へと発見された。また、塔のそばには直径2メートルほどの古井戸がある。