長野久義、村田修一、清原和博…巨人に捨てられた男たち (3/5ページ)

日刊大衆

かつての主力も戦力にならなくなれば、あっさりクビを切る……。実際、FA移籍組の中で、引退を巨人で迎えた選手は6人しかいません」(ベテラン記者)

 巨人が下した非情な決断。記憶に新しいところでは、村田修一だろう。村田は11年に横浜からFAで巨人に移籍。4番打者として活躍し、生え抜き以外では初となる選手会長も務めた。「17年のオフ、村田は戦力外を言い渡されました。球団の発表では“若返り”が理由でしたが、簡単に功労者のクビを切ったという印象は拭えませんでしたね」(前出の巨人番記者)

 この年、村田は開幕当初こそ控えだったものの、最終的には118試合に出場。打率2割6分8厘、14本塁打、58打点という、まずまずの成績だった。「常時スタメン出場すれば、まだまだ結果は出せたはずですし、三塁の守備はトップクラス。巨人も他球団が獲らないとは思わなかったんでしょう。通算2000安打達成間近(残り135本)だったこともあって、球団側の冷酷さが際立ってしまいました」(前同)

 村田は、独立リーグで現役を続行したものの、翌18年に引退している。

■涙のドラフトで挫折を味わって

 そして村田同様、巨人に冷遇されたFA選手として、忘れてはいけないのが清原和博だ。清原は1985年の“涙のドラフト”で挫折を味わいながらも、96年、FAによって巨人入団という夢をかなえた。しかし――。

「清原本人も著書『告白』(文藝春秋)で、〈巨人での最後の2年間は辛いことばかりだった〉と語っていましたが、晩年は球団との摩擦がたびたび報じられるような状況でした」(同)

 04年に堀内恒夫監督が就任すると、清原の出場は激減。オフには翌年の戦力構想から外されてしまう。「退団もささやかれた中で、清原は“泥水を飲む覚悟で”と巨人残留を決意。

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