人は望んだ生き方が叶わず命を絶つ 人は望んだ生き方の為に命を賭ける (2/7ページ)

心に残る家族葬

文武両道に優れていた勇次郎は安政2(1855)年6月、江川に推挙され、普請役鉄砲方付手代となり、江戸幕府に仕えることになる。さらにそこの頃の日本は、度重なる外国軍艦の来航に直面し、海軍創設が急務となっていたことから、勇次郎は長崎に開設された海軍伝習所の第1期生として、最新の航海・測量・砲術など、海軍軍人としての全てを学ぶ好機を得た。しかも当時の勇次郎は「江川太郎左衛門組付鉄砲方手代」の立場のみならず、語学にも堪能であったため、「蘭書翻訳方」としての役目も果たしていたのだ。

それから2年後、幕府は江戸・築地に軍艦操練所を設けた。そのことから、長崎海軍伝習所の第1期生の大半は、江戸に戻ることになった。そこで勇次郎は教授方として、若者たちの教育に当たっていた。

そんな中、安政5(1858)年6月に調印された日米修交条約批准のため、2年後の1月、外国奉行・新見豊前守正興を正使とした使節団が、アメリカに派遣されることとなった。その際、船の長さ49メートル、幅6メートル、3本マストで100馬力のオランダ製の船・咸臨丸(かんりんまる)は、使節一行が乗るアメリカ軍艦ポーハタン号の随伴船となった。その提督には、軍艦奉行・木村摂津守喜毅が、そして長崎海軍伝習所第1期生100余名の中から、勝麟太郎(勝海舟)と勇次郎を含む5人が選ばれ、品川港から船出した。

勇次郎は運用方兼砲術方として咸臨丸に乗り込んでいたのだが、行きの37日間のうち、晴天だったのはわずか5〜6日だった。ほとんどが悪天候続きで、ひどい時は1週間も暴風雨に見舞われた。後に勇次郎が提督・木村摂津守に贈った『咸臨丸難航図』そのままの、波に船が飲まれそうになり、船室は水びたし。帆は吹き破れ、半ば海に沈みかかっている状況だった。とはいえ無事に、船はサンフランシスコの港に到着できた。96名の日本人乗組員の大半は、疲労と船酔いで食もほとんど喉を通らず、同乗していたジョン・M・ブルック大尉を筆頭とする、熟練したアメリカ人水兵たち11名の助けがなかったら、乗組員もろとも、海の藻屑と消えていたはずだったと言われている。

現地滞在の53日間、そして帰りの45日間の詳細を、勇次郎は『航亜日記』に残している。

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