人は望んだ生き方が叶わず命を絶つ 人は望んだ生き方の為に命を賭ける (3/7ページ)

心に残る家族葬

しかも画才があった勇次郎は、勤務の傍ら、自由になるわずかな時間を縫って、合計84点にも及ぶ、毛筆によるスケッチを描いていた。咸臨丸には専門の「絵師」が同乗していなかったため、咸臨丸の構造、洋上での状況、当時のサンフランシスコやメア・アイランド、ハワイの様子などを今日我々が知りうる、貴重な資料となっている。生真面目な性分だった勇次郎は自分の記録に関し、思うように絵を描く時間がなかったこと、そして十人十色のものの見方があるので、できるだけ物事を脚色せず、ありのままに伝えようと最大の努力を払った、と書き記している。

■鈴藤勇次郎の自害と彼の人格を物語るエピソード

咸臨丸帰国前の安政7(1860)年3月、日本では桜田門外の変こと、大老・井伊直弼暗殺事件が起こった。そのため、国内情勢は鎖国攘夷へと逆流してしまう。それゆえ、苦難を乗り越え、日本に戻った咸臨丸乗組員がもたらしたアメリカの最新の文物はもちろんのこと、航海の成功すら、十分に評価されずに終わってしまっていた。

とはいえ帰国後の文久2(1862)年12月、勇次郎は与力格に。そして慶応元(1865)年、小十人格と「出世街道」を歩み、軍艦頭取を命じられる。更に勇次郎は、将軍・徳川慶喜に随行して京都に赴任していたのだが、慶応3(1867)年3月、病にかかり、江戸へ戻ることになる。そこで9月には、築地に海軍病院建設を命じられ、建築主任としてその指揮を取った。翌年、明治元(1868)年の1月には、軍艦役となった。咸臨丸に同乗していたブルック大尉は、勇次郎のことを「小柄で細い、あまり精力的でない」と評していたのだが、江戸幕府瓦解が進む中、病が癒えない勇次郎は妻と2男1女の子どもたちと共に、故郷の前橋に戻ることになった。年老いた母を見舞った後、勇次郎は妻子を兄・英義に託し、8月24日に自害した。

勇次郎が病に伏していた頃、海軍副総裁であった榎本武揚(1836〜1908)は、明治新政府に降伏することを拒否した。そして8月19日に咸臨丸を含んだ幕府の艦隊7隻を率い、品川沖から脱走して、「榎本政権」樹立を目指し、箱館(現・北海道函館市)に向かった。榎本と行動を共にした旧幕臣は、2000人以上に及んだという。

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