歴代総理の胆力「伊藤博文」(3)リーダーシップの決め手は「妥協の達人」であること (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「伊藤博文」(3)リーダーシップの決め手は「妥協の達人」であること

 あらゆる組織のスタート、「創業」には規範、ルールの確立が不可欠である。その意味で、伊藤博文は折から澎湃(ほうはい)として湧き上がってきた自由民権運動に機敏に反応。それまでの明治政府、その組織を太政官制度から内閣制度に切り替えたこと、初の大日本帝国憲法=明治憲法の起草と発布、さらに国会の開設など、アジアで最初に立憲体制を緒に就け、明治国家の主要な機構を設置、その後の政党政治の在り方を決定づけた。

 これが、伊藤の「功」としての位置づけとなる。あまた知られた、単なる「オンナ好き」では、なかったということである。

 その「胆力」は、若い頃からのなんともの血気盛んぶり、情熱のほとばしりに見ることができた。

 伊藤は天保12(1841)年、現在の山口県光市、当時の周防国熊毛郡に農民の子として生まれた。ちなみに、この地からは、昭和の時代に移って「兄弟総理」となった岸信介、佐藤栄作も輩出されている。

 伊藤の家は貧しく、12歳で奉公に出、当時は姓は与えられておらず、「利助」と呼ばれていた。のちに、父親が下級武士の養子となったことで士分となり、伊藤姓を名乗るに至る。利助改メ博文となるのは、志士として活動後、明治新政府の重鎮となった少し前からである。

 若き日の伊藤は、後年の金銭欲、名誉欲なしとは打って変わり、上昇志向に満ちていた。攘夷を叫んで英国公使館を焼き討ちしたり、暗殺事件にも加わる暴れん坊ぶりを示す一方、のちの28歳で新政府の兵庫県知事の座を手にしたときは、まさにしてやったり、自ら感激の極みに達して郷里の父親に金百両ナリを送ってみせてもいるのがいい例である。

 その伊藤の人生の転機は、吉田松陰らの「松下村塾」で学び、高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)らと行動を共にしたことにあった。ここで英国留学のチャンスを得、欧州の実情を知ったことで攘夷から開国の必要性に目覚めていったのだった。

 その後、岩倉具視の使節団一員として、先の木戸あるいは大久保利通らと欧米諸国を回る中で、さらに近代化への啓発を受け、立憲政治の必要性を痛感する。やがて、「維新三傑」の西郷隆盛が西南戦争で倒れ、木戸孝允は病死、大久保利通も暗殺されて人材が枯れる中で、伊藤は立憲制度の導入に拍車をかけたということだった。

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